『不死の人』

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『不死の人』を読み終わった。久しぶりに夢中になって小説を読んだような気がする。歴史上の出来事や人物を扱った小説も、カタカナが大量に現れる翻訳小説も苦手としていた筈だけど、これはするすると読めてしまった。一話一話がかなりコンパクトな短編になっているお陰で読みやすかったのもあるけど、前述した要素に感じていた退屈さやうずらわしさが気にならないくらい、興味をそそる思想やはっとさせられる筆致に溢れていたからだと思う。

収録されている作品の中で特に好きなのは「不死の人」だ。読んでいると色々なことを考える。不死を与えられた人々はどのようなことを思うのだろうか。寿命の制約がない中、際限なく積み重ねられていく記憶をまともに保っておくことはできるのだろうか。そのうち、あらゆる事物に対して興味を失ってしまうのではないだろうか。作中に、「この無限の鏡の迷路のあいだで、何物も見失われはしない。ただの一度も起こらないようなことはなにもないし、貴重な不定性を誇りうるものもなにひとつない」という一節がある。終わりなく延々と引き伸ばされた時間におかれれば、不確実なものは価値を失ってしまうのだろう。どんなに冒険的かつ独創的なことを成し遂げたとしても、それは遠い昔に行われた行為の反復に過ぎず、またこの先無限に存在する未来において幾度も繰り返されるであろう陳腐なものに成り下がる。とびきり珍しいものを偶然目にした場合も同じだ。どんな感動も、どうせこの先何度も味わうことが分かっていればすぐにその価値が薄れてしまう。「自分の生きているこの世界では全く同じ出来事は二度と起こらない。そしてどんな行為も自分の生涯で最後の行為になる可能性をもっている」という考えを、初めて実感したのは小学生の頃だった。日が落ち、月の見え始めた夏の夕刻だったと思う。マンションの三階の窓からすぐ前にある道を眺めていると、自転車に乗って中年女性が左手から現れ、そのまま視界の外へと走って消えていった。それを見たとき、「自分がこの瞬間を経験することは生涯でもう二度とないんだ」ということを直感的に感じた。小学生の頃の夏、夕方に、マンションの窓から顔を出して、自転車に乗って走っていく人を見た、という瞬間はもう永遠に訪れない。不死の人びとはこんな感傷に囚われることもないのだろう。過ぎていく時間の一瞬一瞬の価値が不明瞭な中、生きていくのはどんな気分だろうか。読んでいてそんなことを思った。

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