夏の永遠性について

夏に対して「永遠」のイメージが付きまとっている。春と秋と冬には何故だかそれを感じない。春や秋は季節の中継地点だという認識があるからだろうか。春に咲く桜は「始まり」を思わせるけれども、長くは咲き続けてくれない。ほんの一ヶ月もしたら役目を終えて、満開の頃が嘘みたいに散ってしまう。徐々にかさが減って枝がむき出しになっていく桜の木を見るのはひどく寂しい。未来に待っている何か新しい出来事を予見させてはくれるが、予見させた本人は役割をそそくさと済ませて退場していく。秋もやはり永遠というよりは時間の移ろいを感じる。紅葉、イチョウ、枯葉、落ち葉を踏む感触などが思い浮かぶ。これも中継地点だ。赤と黄色で彩られた風景はあっという間に消えて、荒涼とした冬の姿を呈していく。冬も永遠ではない。いや雪で真白になった世界は「静止」のイメージを感じる。静止は永遠だろうか。でもそこからは夏の延々とループし続ける夢のような雰囲気を見いだせない。夏の昼間、何重にも重なった蝉の鳴き声を聞いているうちに意識が曖昧になって霞んでいく感覚がそこにはない。幻覚のように現れて青い空を埋め尽くす入道雲もない。夕刻の涼しげでどこか懐かしい空気やひぐらしの鳴き声で、何か取り返しのつかないものを置き忘れてきてしまったような気分になることもない。夏にいるときはあらゆる出来事が終わることなく延々と続いていくように思う。昔の学校の思い出をリピートするときも何故だかきまって夏で、蒸し暑い校舎や夏休みの部活でやった他愛無い会話や蝉の鳴き声やプールの消毒液の匂いや入道雲のことばかり思い出す。記憶の中で夏が永遠にループしている。この夏へ感じる懐かしさや永遠は、紛れもない自分の感性から見出したものなのか、それとも他人の言葉やイメージから無意識にくみ取って知らないうちに染み付いたものなのかはよく分からない。前者だったら面白いけど、たぶん後者だろうと思う。